創業200年、「輪島屋」という名を背負う

16世紀にヨーロッパに紹介された日本の漆工芸の美しさは大きな衝撃を与えました。そして、それをヨーロッパで模倣した工芸を”japan”と呼んでいたほど、漆工芸はまさに日本を代表する工芸として認められました。中でも、ここ石川県輪島市は代表的な漆器の産地として知られています。

私たち輪島屋善仁(わじまやぜんに)はその輪島で江戸・文化年間(1813年)創業、以来200年余り、輪島塗の伝統の技をつないで全国に漆文化を発信し続けてきました。

その社名の「輪島屋」という名について…

輪島塗は、古くは北前船の時代から全国に行商に出て、直接エンドユーザーであるお客様にお会いして、対面販売をするというスタイルをとってきました。
今でも焼きもの屋さんのことを「瀬戸物屋さん」「唐津屋さん」と呼ぶことがありますが、かつては輪島から来た漆器屋は全て「輪島屋◯◯さん」と呼ばれて親しまれていました。時代とともにその呼称は徐々に消えていきましたが、現在私たちだけが唯一その名を受け継ぎ、昭和47年に「輪島屋」という商標登録を許されました。

その歴史的な「輪島屋」という重いブランド名を受け継いだ責務として、私たちは歴史上の名品に負けないものづくりをするべく、社是として「漆芸史上最良のものづくり」を掲げ、「材料・技・意匠」の3つにおいて常に最上のものを目指しています。


日本の漆の森を育て、守る

漆はウルシ科の植物でアジアを中心に70属600種あります。そのうち、日本や中国、朝鮮半島において漆液を採取するのは「ウルシノキ」と呼ばれる種です。中でも日本のウルシノキが最も高品質の漆を産します。価格は中国産の数倍にもなりますが、純正の日本産漆は魂の塗料と呼ばれるにふさわしい神秘的な魅力があります。扱いは難しく高い技術と知識を要するのですが、その仕上がりは瑞々しく、いつまでもふっくら感があり、そして時間と共に美しさが増します。

近年、国により国宝・重文の建造物の修理に日本産漆を使用するよう通達がなされ、もともと生産量の少ない日本産漆はたいへん貴重なものになっています。私たちは1998年(平成10年)より岩手県二戸市浄法寺で、民間では最大規模の15,000本あまりの漆の木を植栽し、最良の漆を安定して確保して使用しています。

漆の一滴は血の一滴

漆液は漆の木の幹にキズをつけて採取します。人が怪我をすると血小板の働きで傷口を防ぐように、漆の木もキズをつけられると自ら治療するため、急いで傷口に漆液を滲ませます。漆はそれを一滴ずつ掻き取ったものです。

この傷口の養生には4~5日かかるので、漆の採取は4〜5日に1回のペースで行われます。期間は6月初旬から10月までの約150日間。この間に採れる漆の量は、20年生の木で200グラム前後、わずか茶碗1杯ほどです。漆の一滴は血の一滴といわれるほど貴重なものです。この間、名人と云われる人は良質の漆液がたくさん出るように漆の木を調教しながら採取します。漆液は、木ばかりでなく採取人によって品質が異なります。

秋の終わりには、満身創痍の漆の木は切り倒されます。長い人間との付き合いで、漆の木は切り倒されることを知っているかのようです。来年から実をつけられないため、生涯最大の実を枝が折れるばかりにつけます。人はそれを見て、ウルシノキの命である漆を活かすことを心に誓います。

漆の木の命をつないでいく

切り倒されることを知りつつ漆液を滲ませてくる漆の木は、木の命である漆を人に託してきます。木製漆器の仕事は、託された命をどう活かすかです。さまよえる魂を安住の器に宿らせる。その技を精一杯高めるのがものづくりです。日本のものづくりは、ものに魂を入れる、入魂作業といえるのではないでしょうか。私たちは、漆芸はその根本であり国技と捉えています。最良の漆を使用することは、輪島屋善仁のめざす最良のものづくりの根本理念です。木地へ最初の漆を塗ると、元の木へ還るようにしみこみます。漆の木の命が再び安住の地を得たかのようです。漆器が「再生の器」と云われる理由の一つです。


名品に挑む

輪島屋善仁のテーマは漆芸史上最良のものをつくることにあります。現在の物づくりが過去と比べて劣るようでは未来はありません。そのため、私たちは漆芸を国技ととらえ、これまで漆芸史上に残る名品の再現にも挑んできました。「片輪車蒔絵手箱」「八橋蒔絵硯箱」といった蒔絵の名品や、中世に花開いた「根来」の優品の再現を通して、先人の偉業を未来へ継承する役割を担っていきます。


「塗師の家」の復元

輪島市の朝市通り近くにある「塗師の家」は、輪島の塗師文化が最も華やかだった江戸後期から明治終期にかけて建築されたものです。

時は1987年(昭和62年)の立冬の朝、先代の当主が廃屋となっていたこの家に出会いました。中は荒れるにまかせ、その価値を認められる状態ではありませんでした。しかし、積もる埃の下、その美しい漆の町屋の一片を見た先代は、全身が鳥肌立ちその場に立ちつくしました。その日から葛藤が始まりました。塗師の家を復元し塗師文化を復活する仕事は、魅力的である。しかしそれは同時に膨大な費用がかかり、零細な家業を閉じる結果となるかもしれない…。

年が明け、春が過ぎ夏が過ぎ、秋が終わってふたたび冬を迎えた木枯らしの日。先代は力不足を納得し、後世にせめて写真だけでも残そうと思い、これが最後と廃屋の家に入りました。ふと見ると、坪庭のサザンカが淋しげに二つ三つ花を咲かせています。そのとき、一年の迷いが消え、先代はサザンカに背中を押されるように、気持ちを翻して輪島の財産の復元を静かに決心しました。

そして綿密な計画と大改修を経て1990年(平成2年)の冬に完工、塗師文化が最も華やかだった明治の面影がよみがえりました。「塗師の家」は、輪島塗を育んだ塗師文化を証明する唯一の建物として輝きを取り戻し、なぜ輪島に輪島塗があるのか、その理由を教えています。

(追記:「塗師の家」は2023年に輪島市に寄贈され、以後は漆文化を育んだ輪島市全体の財産として将来に向けての更なる保全・継承と活用が計画されておりました。しかし、2024年1月1日の能登半島地震の際に発生した大規模火災により、残念ながら焼失してしまいました。)

漆器が生まれる場所

分業のリレー 「次工程はお客様」

漆工芸、漆器産業は、様々な分野で多くの人間が関わることによって成立しています。まずは漆の木と材料となる木を植えて育てる林業の技術者、良質の漆を生産する漆掻き職人と精製技術者、そして地の粉や金粉などの多種にわたる材料の製作者が必要です。加えて、漆刷毛や蒔絵筆など専用の道具の製作者もいないと、漆器を作ることができなくなります。

そして輪島塗は、木地師、下地師、研物師、中塗師、上塗師、蒔絵師、沈金師、呂色師…といった数多くの分業のスペシャリストのリレーによって完成します。職人一人一人が、長年の修行を経て専門の高度な技術を身につけます。一人で多くの工程をこなすとしたら、専門の職人ほどの技術は極められないでしょう。輪島屋善仁の工房では「次工程はお客様」と考え、各工程の職人はプライドを持って自分の工程を完璧に仕上げ、次の工程に渡すことを目標にしています。いい仕事を受け取った職人は、それを台無しにするわけにはいきません。漆器は各々の工程で何度も完成している、とも言われる所以です。

見えない部分にこそ力を注ぐ

輪島塗の大きな特徴は、布着せ本堅地と呼ばれる下地塗りにあります。木地の傷みやすい部分に布を貼って補強し、珪藻土を蒸し焼きにして砕いた「地の粉」を生漆に混ぜて塗ります。上塗りが施されて完成した漆器からは、下地塗りの仕事は隠れて窺い知ることができません。しかし、その見えない部分にこそ漆器の価値が隠れています。手を抜いた仕事は、使っているうちに必ず現れてきます。下地塗りをしっかりした漆器は、例えば傷がついたりしても、上塗りを研ぎ落としたところまでさかのぼって修理ができるのです。

輪島屋善仁工房へのお誘い

ご報恩、200年

私たち輪島屋善仁の最も大切な仕事は、お客様のご恩へ報いることだと考えています。創業200年のものづくりは、お客様のお力添えによるものです。今後もずっと、お客様の顔が見え、声が聞こえるところでものづくりに精進したいと思っています。漆器は工房で生まれますが、お客様が長年使用することで味わいが加わり完成します。私たちにはお客様のもとで育まれる器を見守る責任があります。

工房を訪ねてみませんか

日本列島のほぼ真ん中、日本海に突き出た輪島は、古くから開けた日本の七つの湊のひとつでした。長い歴史の中で輪島塗は、「潮の道」を販路として製品を自ら全国のエンドユーザーへ直接売りさばく自作自売の販売形態を生み出しました。お客様とじっくり向き合い、お客様に一番喜んでいただけるものを精魂込めてつくる、というものづくりの精神が、今も息づいている町です。

そんな町の工房の一つである私たち輪島屋善仁工房を、気軽に覗きにきてみませんか?
製作現場を訪ね、日々ものづくりに励んでいる職人と話をして、実際にものが出来上がる現場を体験してみると、これまで縁遠いものと思われていたかもしれない漆の世界が、きっと身近に感じられるようになると思います。


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