心をいやす漆のやさしさ

漆と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょうか?
まずは都内に住むお客様から伺ったお話をご紹介しましょう。

漆のスプーンは魔法のスプーン?

あるときお客様のご高齢のお母様が体調がすぐれず、気分もふさぎ込んで徐々に食欲もなくなってきてしまいました。食事はベッドに運んで食べさせてあげていたのですが、毎日の食事もあまり摂られなくなり、日に日に弱っていくお母様を見て心配が募るばかりでした。

漆のスプーンそんなある日の食事のとき、普段使っていた金属のスプーンに替えて、何の気なしに以前に買ってあった漆塗りのスプーンを使ってみることにしました。「魔法のスプーンよ」と言いながら、漆塗りのスプーンに食べ物をのせてお口にくわえさせてあげたところ、お母様は急に心が和んだように久しぶりににっこりと笑って、その日はいつもよりもたくさん食べてくれたそうです。その後もいつになく気分が良さそうだったので、それからは毎日漆のスプーンを使うようにしてみました。するとお母様は徐々に食事も楽しんでたくさん摂られるようになり、病気も次第に快方に向かっていき、やがてすっかり元気を取り戻したとのことです。お客様はたいへん驚かれて、それから漆の器が大好きになりました、とおっしゃってくださいました。

漆の優しい肌触り、柔らかい口触りは、そんな風に無意識に人の心に強く働きかける力があるようです。日本人は器を手に持って食事をしますが、長い歴史の中で器を肌で味わう感覚がしっかりと刻み込まれているのかもしれません。

数千年変わらぬ美しさ

私たちの祖先は、約9,000年以上も前から、食器や装身具、弓矢や甲冑などの武具、家具や建物にまで、身の周りのあらゆるものに漆を塗って生活してきました。 数千年前の出土品も、驚くほどの輝きと美しさを失っていません。

手や唇に伝わる暖かな漆の肌合い。風雪を経てなお深い味わいと美しさを湛えた朱漆の風合い。吸い込まれるような漆黒に映える蒔絵や沈金の輝き。小説家の谷崎潤一郎は『陰翳礼讚』のなかで、障子越しの柔らかな光に浮かび上がる蒔絵の美しさを、これぞ日本の美と絶賛しました。 漆は日本ばかりでなく、朝鮮や中国、東南アジアでも広く使われてきましたが、日本ほど漆を愛用し、漆芸の技を多彩かつ高度に練り上げてきた国はありません。漆はまさしく日本の心なのです。

生活芸術品

さりげない豊かさ

今の私たちは「芸術」や「美術」といった言葉を当たり前に使っていますが、実はこれらの言葉は明治時代につくられたものです。かつての日本人は、そんな言葉や概念を意識することもなく、些細な道具にも様々な工夫をこらして美しく心地よいモノを作り、さりげなく身の回りにおいて生活を彩ってきました。

そんな日本人の暮らしを美しく彩って生活の質を上げていた様々なモノ達、私たちはそれを「生活芸術品」と呼んでいます。柳宗悦の民藝運動にも影響を与えた、19世紀イギリスのアーツ&クラフツ運動のウィリアム・モリスも提唱したように、私たちの作るものも、そんなお客様の日々の暮らしにそっと寄り添う「生活芸術品」になることを目指して製作されています。

使う人が育てていく器

漆は生きている塗料ともいわれています。漆の器は工房で誕生しますが、使うことによって日々表情を変え、次第に塗膜の奥底から跳ね返ってくるような底艶を増して、その人だけの器になっていきます。漆の器の上には時間が堆積して、それぞれの器ならではの深みと美しさが加えられて育っていくのです。漆の美は作り手が完成させるのではなく、使い手が完成させるといえるでしょう。今に伝わる中世の根来の漆器も、生まれたばかりの漆器にはとても真似のできない、枯れた味わいを醸し出しています。

使い手と作り手が楽しみ合う文化

漆器の文様は、季節感のある花鳥風月や山水、あるいは詩歌や物語、故事を絵にしたものなどが多く描かれてきました。作り手は工夫を凝らし、精魂を傾けて使い手に情景や意味を伝えようとします。また使い手は、そんな作り手の意図を想像し理解しようとします。

南天獏蒔絵枕例えば、蒔絵で何か変わった動物を描いた枕がありました。知らない人が見たら、牛のような、象のような、豚のような、何だかよくわからない動物が描いてある。実はこれは、悪い夢を食べてくれるという「獏」という架空の動物で、この枕を使う人が悪夢を見ないようにと考えて描かれたもの。これがよくわからない動物、で終わってしまっては、元も子もありません。また逆に、あまりに通俗的で工夫のない題材だと、使い手に見下されてしまいます。そこにはものを通じた心のやりとり、お互いのセンスや見識の高さを競い合い、楽しみ合う文化がありました。(このエピソードは輪島漆器商工業協同組合発行の「うるしの話」より引用しました。)

時間をかけないとできないこと

寝かせれば寝かせるほど..

漆器づくりは、長い時間の堆積の成果といえるかもしれません。塗って、研いでを何度も繰り返す。塗った後は「寝かす」といって、生きた塗料である漆がしっかり固まって下の層となじむのを待つ時間が必要です。

また、私たちの工房の塗り師はよく「漆が乾く」と「漆が枯れこむ」という言葉を分けて使います。表面上は漆が固化して「乾いて」いるように見えても、漆層の奥深いところまでしっかり「枯れこむ」まで待たないと、本当の漆の強さ、美しさは発揮できません。よく「寝る子は育つ」と言いますが、いい漆器を作るにも同じことが言えるようです。

自然のペースに寄り添う

また、漆器はすべてが自然素材で作られています。自然の恵みを得られるまでには長い時間がかかります。漆の木が漆を採取できるまで成長するには最低でも15年以上。材料となる木地も何十年もかかって成長した木ですし、伐り出した木地を加工できるまで自然乾燥させるには5年〜10年かかります。下地塗りに混ぜて使う珪藻土は、それこそ1億年前にも遡る藻類が化石となったものです。

現代は何事もどんどんスピードの速い時代になってきています。しかし、手間をかけ、時間をかけなければできない仕事、時間をかければかけるほど良くなる仕事というものが、今この時代にも確かに存在しているのです。


漆の話

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